2009年12月2日水曜日
2009年11月18日水曜日
川越都市圏7都市
2009年11月11日水曜日
川越と江戸、全国諸地域との関係
川越は江戸と関係が深く、観光に関しても仕掛けがいのあるところです。
酒井忠勝(のちの大老)は福井県の小浜市へ
福島県の棚倉から松平康英(老中)が
- 太田道灌は1457年に、川越城を築き、同じ年に江戸城を築きました。
- 家康は7回、家光は9回、主として喜多院の天海さんに会うために、川越方面にきています。
- 江戸をまもる寛永寺は、川越の喜多院の天海さんが開山し、住職となりました。
寛永寺の本堂は、川越から移築したものです。 - 赤坂山王日枝神社は、川越の日枝神社を分祀したものです。
- 1617年、徳川家康の遺骸は、久能山から日光東照宮へ運ばれる途中、
川越の喜多院で4日間逗留し供養されました。
いまでは、日光東照宮、久能山東照宮、川越の仙波東照宮が
日本三大東照宮といわれるゆえんです。 - 蓮馨寺(れんけいじ)の開山は、感誉上人です。
のちに感誉上人は、浄土宗の本山である増上寺の第十世になりました。
浄土宗の寺院は全国に7000以上あります。
本山で修行のあと、「感誉流伝法」を授与されて、はじめて正式の僧侶になることができます。 - 川越藩の藩主には、江戸幕府の重鎮が配されました。
老中は松平信綱など6名、大老は、柳沢吉保など2名です。
【川越藩の大老と老中】
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/han.html - 川越には、江戸をしのばせるものが多くあり、そのため小江戸とよばれます。
蔵造りの町並み。菓子屋横町。川越まつり。江戸城の家光誕生の間(江戸城の唯一の名残)
- ペリー来航 川越藩が沿岸を守備
- 川越藩主の酒井忠勝(のちの大老)は福井県の小浜市へ
- 小浜市は姉妹都市
- 福島県の棚倉から松平康英(老中)が川越に
- 棚倉と友好都市協定
- 神田神社
- 文京区春日 春日局 喜多院
- 日枝神社 滋賀県の比叡山 日吉大社
酒井忠勝(のちの大老)は福井県の小浜市へ
福島県の棚倉から松平康英(老中)が
2009年7月14日火曜日
佐藤信淵について
- 佐藤信淵におけるリンク集
佐藤信淵とは?
- 参考文献
- 佐藤信淵年表
1792年 江戸京橋柳町にて医業を始める。
1797年 母が死に、上総国山辺郡大豆谷(まめざく)村(現在の千葉県東金市)に移る。
1815年 平田篤胤に入門。
1816年 医業廃業。吉川源十郎一件に連座して入牢。江戸所払いにより、下総国船橋大神宮 (現 在の千葉県船橋市)に移る。
1825年 『天柱記』を著す。
1832年 江戸所払いにより、武蔵国鹿手袋村(現在の埼玉県さいたま市南区)に移る。『農政本論』を著す。
1839年には親交のあった渡辺崋山、高野長英、小関三英とともに蛮社の獄に連座したが、わずかに罪を免れる。
1840年 信淵は幕府専売制ともいうべき「復古法」を実施し、流通を幕府の手によって直接統制し、流通過程からの収奪による富国策を提示した。
1841年 盛岡藩に仕官。
1850年 死去。
1
- エピソード
1804~18年以降、兵学・対外策に関する著作、『農政本論』をはじめとする農政、農学、諸産業学の著作、『宇内(うだい)混同秘策』『天柱記』など、政治経済論から宇宙論に至るまで活発な著作活動を展開しました。非常に学ぶ分野が広く、優秀な学者だったと思われます。
信淵の著述は300部8,000巻に及ぶとされていますが、必ずしも全ては伝わっておらず、主なものは滝本誠一編『佐藤信淵家学全集』にまとめられています。
彼について触れる人は江戸時代にはほとんどいませんでした。しかし明治になってから持ち上げる人がたくさん出るようになり、著書は刊行され、教科書にまで取り上げられる有名人となりました。明治時代になり時代が変わってくるということから、彼の斬新的な考え方が必要となったのかもしれません。
佐藤信淵が埼玉県とどう関係があるのでしょうか。それは佐藤信淵が1832年に江戸所払いにより、今の埼玉県さいたま市南区に移りました。江戸所払いとは、江戸で罪を犯した人、特に常習犯を指します。そういう人は江戸には置いてはおけないということで追い払われました。
佐藤信淵自身はどういう罪を犯したのかわかりませんが、常習犯というくらいの者だったので、悪さばかりしていた人物だったのかもしれません。江戸所払いによって埼玉に移った彼は、農政本論という本を書きました。
この本に「百姓をして農事を楽しませるには神事を愉快にすることである。」という言葉があります。これは農業を楽しんでやることは、神様が喜ぶということではないかと考えています。
最後に、この佐藤信淵は本当に謎が多い人物です。自分が調べただけではまだまだわからないことばかりです。もしかしたら佐藤は農業政治を影で動かしていた人なのかもしれません。
佐藤信淵自身はどういう罪を犯したのかわかりませんが、常習犯というくらいの者だったので、悪さばかりしていた人物だったのかもしれません。江戸所払いによって埼玉に移った彼は、農政本論という本を書きました。
この本に「百姓をして農事を楽しませるには神事を愉快にすることである。」という言葉があります。これは農業を楽しんでやることは、神様が喜ぶということではないかと考えています。
最後に、この佐藤信淵は本当に謎が多い人物です。自分が調べただけではまだまだわからないことばかりです。もしかしたら佐藤は農業政治を影で動かしていた人なのかもしれません。
- 佐藤信淵に関連する偉人
2009年7月8日水曜日
2009年6月24日水曜日
積み上げ棒グラフ

積み上げ棒グラフ
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